吾輩は芥川賞を全部読む。

読んだ本の書籍レビューを軸に好き勝手書きます。作家になりたい大学生。来年から働きます。経済学部、専攻はマーケットデザイン。

面白い本(漫画)見つけた。~1984年という時代~

突然ですが、自己紹介をします。

経済学部です。四年生です。

卒論は「道路料金を課した場合の個人の意思決定と混雑緩和のための施
策の設計」という題で書きました。

 

で、経済学部なんですけど、小説大好きなんですよね。(周りには本読んでる人ひとりもいない……)

 

で、僕の通っている大学の経済学部には「研究プロジェクト」なる、要するに、

「なんでも好きなテーマ選んで論文書いてみ?」というものがあります。

これで僕は『嵐が丘』と『ノルウェイの森』の比較文学で、論文を書き上げました。

まぁ、わりに難しかったですね。

 

で、そこで痛感したのが、比較文学って、比較する文学作品をどう選ぶかだなぁ……

ということ。

「むしろ、なんでそこが初めにわからなかったの?」って思いますよね、自分でも思います。

 

で、本題に入ります。

今日紹介したい本がこちら。

 


村上春樹の「螢」・オーウェルの「一九八四年」

 え、これなんでこの二つの組み合わせなん? 

って思いません。僕は思いました。笑

 

なんでだと思います。ちょっと考えてみてください。

 

 

 

正解したらすごい!🐥

 

このジョージ・オーウェルの『1984』と『蛍』共通のキーワードは「1984年」です。

そう、ジョージ・オーウェルは過剰なまでの監視社会となった『1984』を描き、『蛍』が出版されたのは1984年だったのです。

すごい目の付け所ですよね笑笑

この「1984」をキーワードにしてオーウェルの『1984』と村上春樹の『蛍』(『蛍』は村上春樹のベストセラー、『ノルウェイの森』のもとになった短編)を二つを結びつけるというだけでセンスがあります。

1.ジョージ・オーウェル1984』とは

すべてが監視されるディストピア的な近未来を描いた名作。

昨今、ますます社会の中にカメラが入り込むようになって、注目を浴びています。ここに描かれている未来は近いのかもしれない……

以下あらすじ↓

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

オセアニアに内属しているロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店(ノートを買った古道具屋)を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらに、ウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。

ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は、「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら“心から”党を愛すようになるのであった。

2.村上春樹『蛍』とは

村上春樹の一番のヒット小説『ノルウェイの森』の下地になった小説。

ちなみにこの作品が収録されている短編集には村上春樹の真骨頂が出ている短編『納屋を焼く』も入っておりおすすめ。

以下あらすじ。

 

1967年の春から翌年の秋にかけて、「僕」は文京区にある学生寮の二人部屋に住んでいた。病的なまでに清潔好きな同居人のおかげで、部屋の床はちりひとつなく、灰皿はいつも洗ってあった。

5月の日曜日の午後、「僕」は中央線の電車の中で高校時代の友人の恋人と偶然出会う。彼女は東京の郊外にある女子大に入学していた。

友人の死後、「僕」の中にぼんやりした空気のようなものが残り、それは時が経つにつれ形をとりはじめた。死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。僕はこの言葉をひとつの空気として身のうちに感じた。

年が明けて6月に彼女は二十歳になった。誕生日の日の夜、「僕」は彼女と寝る。彼女に長い手紙を書くと、7月の始めに返事が届いた。「大学をとりあえず一年間休学し、京都の山の中にある療養所に落ちつくことにします」とそこには書かれてあった。

7月の終り、インスタント・コーヒーの瓶に入れた螢を「僕」は同居人から受け取る。「僕」は夕暮、その瓶を持って寮の屋上に上がった。右手には新宿の街が、左手には池袋の街が見えた。瓶の底で、螢は微かに光っていた。

 

3.比較して見えてくるもの。

ジョージ・オーウェルの『1984』の村上春樹の『蛍』もどちらも人間の「悲愴」を描いているといえます。しかしながら、その「悲愴」の色合いは全く違います。

ジョージ・オーウェルの『1984』に描かれた「悲愴」は全体主義的なもので、そこに個人の自由がないことで生まれる悲劇です。

ちなみにオーウェルの『1984』が完成した1948年にはヨーロッパにおいては二月革命があったりと、全体的に政情不安定になっていました。

そのことが作品に影響がなかったとは言い切れないでしょう。。

対して村上春樹の『蛍』も悲劇ですが、それは全く個人主義的な悲劇です。主人公や、周りの登場人物には選択の自由があります。

何を選択し、どう生きようとも、どんな人生を選んでも、どんなことを考えても自由です。

それなのに、登場人物たちは、自分の意志で行動できるのに、あるものは死を選び、またある者は精神に支障をきたし、主人公の「僕」は孤独を抱えます。

正反対の性格を持つ悲劇をどうまとめるのか。

それもこの漫画の読みどころです。

古典2作品が手軽に味わえる良書、おすすめです。

今日もいい日になりますよう。