吾輩は芥川賞を全部読む。

読んだ本の書籍レビューが主です。作家になりたい大学生。来年から働きます。

【感想】『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

吾輩は傷心である。近所の蔦屋書店に行ってみると、黄色い本が文芸書の売り上げ一位鎮座していた。

 

 

この本である。

 

 


ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

副題はThe Real British Secondary School Days.(副題の邦訳は英国中学校のリアルな日常)

 

※タイトルの由来:英国人の夫と結婚した、日本人のわたし。息子の部屋に掃除に行くと、机の上に国語(English)のノートが開かれたままなのを見つける。そのノートには赤ペンで添削されていた。息子はBlueの意味を『怒り』と書いてしまったのだ。わたしは夕食時に息子とそのことを話したことを思い出した。そしてわたしは、Blueが表す感情は『悲しみ』または『気持ちがふさぎ込んでいる』と息子に教えたのだった。これがその宿題か、とみてみると、右上の隅の、小さい落書きが目に入った。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

わたしはこの時、息子がブルーの意味を知っていたのかを、いまだに聞き出せずにいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〈簡単なあらすじ〉

ブレイディみかこ氏と英国人の夫の子供はカトリックの名門小学校に通っていた。しかし、子供の生活環境は中学を機に一変することになる。「元底辺中学校」と作中でよばれる英国社会の縮図のような中学校に進学したからだ。そこでブレイディみかこ氏の息子は、さまざまな差別、暴力、現実に直面する。そんな中学校での息子さんが受けた差別や、その周囲での暴力の記録と、それを親子が体当たりで立ち向かう実話。

 

 

 〈感想〉

吾輩は読み始めたのだが、心が痛くてページをめくるのがつらかった。この本はある意味、差別体験の凄惨な現場報告である。この本に書かれていることは紛れもなく世界のどこかで起きている事実であり、そのことが胸を(非常に安易な言い方で申し訳ないが)締め付ける。苦しくなる。

 

自分のことになって申し訳ないが、吾輩はオーストラリアに一年と、アメリカに半年、そしてニュージーランドに半年いたことがある。

 

大体それくらい暮らすと、どこの国でも差別があることを理解することができる。そして、吾輩が属していた大人の世界でもそうなのだから、子供の世界ではもっと厳しいのだろう。

 

そんな凄惨な現実が本書には収められている。

 

正直な話、なぜこの作品が文芸書の売り上げで一位を取っているのかが理解できない。

 

いや、内容が悪いわけではない。この本は日本で発売することに大きな意味がある。

なぜならば、この本を英国や、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドで発売したところで、大した反響は得られないのだろう。

 

だってそこにはなんら目新しさもない、彼らが目にしている現実なのだから。

 

田舎の中学校の普通のいじめをただ書き綴った本は売れないだろう。

 

でも、だからと言って、この本に書かれている内容はつらすぎる。

 

この本に書かれている差別、暴力、偏見の問題の根本はおそらく解決されない。

 

時代がどんなに進んでも、テクノロジーがどんなに進歩しても、この本の中の暴力はなくならない。

 

なぜなら、人間は自分より弱いものをいたぶることに快感を得る生き物だから。

 

そして人間は狡猾だから、自分より強いものに立ち向かいなんてせずに、その集団の弱いものを見つけていたぶるから。

 

この文字を打っている今も、涙が出ているし、本当はネタバレを書きたかったけど、全部読むことができなかった。

 

つらすぎた。どういう思いでみんなこの本を読み進められるんだろう。

 

オーストラリアの街並み歩いて立って、「ニーハオ」と声をかけらるし、酔った兄ちゃんが犬を見て「おぉ、中国人の餌じゃあないか!」と叫んでいるのもみたし、「アジアンの顔ってみんなかわいいよね」とか片思いしていた子には言われるし、いつもどこかの交差点で土下座をして物乞いをしている白人のホームレスに、アジア人が笑いながらマックのポテトを投げつけるのも見てきた。

 

「心を揺さぶる」という意味では間違いなく名著。

 

でも、吾輩にとっては、人間の醜さを掘り起こされて、まざまざと見せつけられる、という方が正しい。

 

いい本には間違いない。

 

でも、なんで、どうしてみんなこれを読めるんだろう。つらくないのかな。

 

感情をぶん殴られる本。