新潮新人賞受賞作、『尾を喰う蛇』を読みました。
やっぱり文学賞はそれぞれのカラーが出ますね。今年の三月締め切りの文学賞は、それが如実にでたと思います。
ポップで若い『文藝』、ユニークな作品が多い『すばる文学賞』、そして文章が濃密で、暗い話が多いイメージな『新潮』
だいたい受賞作もこんな感じでした。完全に独断と偏見ですが。
〈2~3分でわかるネタバレ〉
主人公の興毅は介護士として病院に勤めている。仕事は辛く、身勝手なパートのおばさんたちにも腹を立てる。たまの休日には一人でラーメンをくい、別れた彼女、京子のことを思い出す。
水野という若い介護士は、89と興毅があだ名をつけた老人から慢性的に体を触られていた。興毅が89をみるようになり、水野にも少し色欲を感じる。ある時89を力で押さえつけてから、興毅は周りを力で支配することに快感を感じるようになる。それと同時に戦争にも興味が出てきて、調べるようになる。
興毅は実家に金を送っている。実家には妹夫婦が暮らしており、妹の夫の稼ぎは少なく、貧乏らしい。母から電話がかかってきて妹が二人目を妊娠したから、お金が欲しいという。興毅は六万送ってやる。
陽平という昔の職場の同僚から呼び出されて、彼が京子と結婚することを知らされた。そして京子を奪った陽平のことが、家庭から夫を奪ったという、人のよい老人の片岡に重なる。
介護している老人の勧めもあり興毅が実家に帰ると、娘と母がファミリーレストランから帰ってきたところだった。
金を送っているはずの興毅に一言の礼もなく、働く気もない妹に興毅は怒鳴ってしまう。
そして興毅は、のちに妹が流産し、興毅のせいだと妹が言っていることを母からの電話できく。
暴力は徐々に増していき、水野が辞めることも聞く。そんな折に、興毅は自分の暴力がばれそうになれ、嘘をつくのだった。
〈雑感〉
介護小説って純文学で結構ありますが、この小説の新しいところはそこに「戦争」と「暴力」という要素を組み込んだところですね。
そしてこの小説、何と言いましょうか、今回の三月締め切りの新人賞の候補作の中で、一番「現代性」のようなものが感じられます。
今年、令和元年はどうしてだか、いわゆるロスジェネ世代のおじさんが起こす犯罪が取り上げられました。「川崎市登戸通り魔事件」や「京都アニメーション放火事件」が代表的ですね。
そこでは今まで日本社会がないがしろにしてきた彼らの身勝手な主張が、暴力で叫ばれてしまったときの、理不尽な復讐の姿がありました。
そのような「川崎市登戸通り魔事件」や「京都アニメーション放火事件」の加害者の裏にあるであろう生活の苦境や、身勝手な怒りを追体験といえるほどリアルな描写が、この小説のひとつの売りです。
もしこの小説が広く読まれるようになれば、そうした事件に対する見方を少し違ってくるのではないかと思います。
これは本当に余談なので読み飛ばしてもらって構わないのですが、私は茨城県の田舎の中学校から、田舎の私立高校、そして慶應義塾大学へ進学しました。
だから、といいますか、社会のヒエラルキーといいますか、周りの人たちの(同級生たちの)親の世代収入、そして社会的地位が中学→高校→大学と徐々に上がってきたんですね。
で思ったのですが、慶應にいる人って、やっぱりみんな育ちがいいし、中高一貫の人も少なくない。
公立の中学校に通っている人が、そういえばゼミの同期(10人いる)に一人もいなくて愕然としたのを今思いだしました。
で、そういう、慶應にいる育ちのいい坊ちゃんって、たぶん公立中学の環境の悪さとか、いじめとか、中学二年の時に同級生が子を孕んでしまったとか、そういう環境を知らないで大人になっていくわけですよね。
もちろん知っている人もいますが(少数派ですが)そういった環境を知らずに、ずっと中高大慶應で、育ちのいい人って、今回の『尾を喰う蛇』の主人公のような人を知らないし、知ろうともしない人が大半です。それよりも、なぜか世界の貧困に目を向けます。
『尾を喰う蛇』はそういう「育ちのいい人」に読んでほしい本です。(読まんだろうけど……)