吾輩は芥川賞を全部読む。

読んだ本の書籍レビューが主です。作家になりたい大学生。来年から働きます。

巨乳とウロボロス~新潮新人賞受賞作『尾を喰う蛇』を読んでほしいという話~

吾輩は巨乳である。カップ数はまだ知らない。

いつから巨乳と呼ばれるようになったかとんと見当がつかぬ。

なんでもベンチプレスなるものをえっちらほっちら四年も続けていたことだけは記憶している。

120キロを持ち上げられるようになって初めて巨乳と呼ばれるようになった。しかも後で聞くと、私の乳首はたいそうきれいだったそうだ。(男に言われた)

その男というのは時々、別の男とデートしているということであった。

しかしその当時は何という考もなかったから特別恐ろしいとも思わなかった……

 

どうもツナ缶プロテインです。

巨乳が問題になっているみたいですね。

告白しますと、私は巨乳です。

そして、私は男です。男で巨乳なんて、得あるの? とか思われがちですが、割にあります。

まず、女の子で男の巨乳が好きな子(大胸筋)が好きな子。これ一定の割合でいますね。

そして、男で男の巨乳が好きな子。(巨乳な男の子が好きな子)これも一定数いますね。私はどちらも経験があります。

 

閑話休題

さて表題に戻りますが、巨乳のポスターが問題になっているそうで。

でも、こういう問題ですごく既視感があるし、前にも見たことがあるような気がします。

これはセクハラである。とか、いやセクハラじゃないっていう揚げ足取りの、水かけ論。

日本ていう国は、何か人々の注目を集めるために、アイキャッチャーとして女性を使うってことはずっとしてきているので、今回だけフォーカスするのは……と思ったりもします。

今回はたまたま、セクシュアルの濃度が、イカ臭いにおいがしてきそうなアニメの絵柄だったから問題になっているだけで、広告に女を使うという点だけで言えば、〇坂や〇〇坂が出ている広告とかと変わらないと思うのですが、どうなんでしょうか……?

結局、目を引くために女性が使われている。

ちなみに、留学していた時、ももいろクローバーがすごい勢いがあったのですが、彼女らの年齢を知ったフランス人がこれぞ軽蔑、という目で見ていました。

JK(やそれより幼い女の子)をコンテンツとして堂々と消費する大義名分としてアイドルという文化を作った国である以上、まぁ今後もおんなじ話は出てきそうな気がしますよね。

この国の男、大人が慣れてますから、女性の性としての一面をお金に還元する手法に。

 

それと、関係するようで関係ない。いややっぱ少し関係あるかもしれない。

 

 


新潮 2019年 11 月号 [雑誌]

 

そんな小説が新潮新人賞受賞作『尾を喰う蛇』です。

ウロボロスという題をつけられたこの小説は、タイトルであり、モチーフであり、深層的なテーマとして人間が同じところをぐるぐる回っているということの象徴でもあります。

 

そして『尾を喰う蛇』という小説の極めて優れているところは、主人公の置かれた状況、孤独が極めて現代的ということです。

令和元年となる今年は、「 川崎市登戸通り魔事件」や「京都アニメーション放火殺人事件」といったいわゆるロスジェネ世代、しかもロスジェネにおいてまともな就職も、生活もできていない成人男性の事件がニュースになりました。

この『尾を喰う蛇』の主人公が感じている、不利な状況、身勝手な孤独、そして独りよがりな怒りは、事件を起こした彼らロスジェネ世代の感じている感情そのものでもあります。

その感情の描き方は、きわめてリアルです。

読者にもよるでしょうが、これは今実際にある、ほかのだれかの現実なのであり、そして現実が時としてこれほど冷たく残酷であり得るということを、心の芯まで寒さが伝わるような丁寧な筆到で描き出します。

例えばこの『尾を喰う蛇』をより多くの(特に慶応に通っているような、恵まれた)若者が読めば、「 川崎市登戸通り魔事件」や「京都アニメーション放火殺人事件」のような事件に対する理解や、世間の見解もいくらかは変わってくるのかもしれません。

 

残念ながら、それらはunfulfilled wish…でしょうが。

なぜなら若者たりは、より分かりやすく、より面白いコンテンツを消費するのに忙しいでしょうから……

 

別にそれが悪いことだとはいいません。若く、そして楽しいということは人生で最も喜ばしいことの一つだと思います。

 

それでも、たまに『尾を喰う蛇』のような本を読む時間が、自分とは全く別の、しかし同じ国に育った紛れもない個人の一生の欠片を覗く時間が、人生にあってもいいと思うのです。