吾輩は芥川賞を全部読む。

20卒のサラリーマンです。日々のこと、読書のこと、創作活動のこと等をつらつらと書きます。みなさんに楽しんでいただけるよな記事を書けるようになりたい。

書籍レビュー 『あり金は全部使え』 堀江貴文  


あり金は全部使え 貯めるバカほど貧しくなる

 

 

書籍レビュー 『あり金は全部使え』 堀江貴文

 

 

土曜日が暇すぎて堀江さんの著作を読みました。

堀江さんの著作を読むのは二作目です。

 

 

 

【概要】

おっす! オラ堀江!

 

ひゃーーー、日本のみんな見渡してみっと、みんな貯金が好きでびっくりすっぞ!

アリとキリギリスの話を思い出してみろ!

あれはコツコツ働いて貯蓄したアリが夏の間中楽器引いていたキリギリスに対して、冬に飢え死にしそうな時に手を差し伸べないという寓話だな!

要するに「貯金」の大切さを説いてるわけだ。

でもそれが通用したのはせいぜい16世紀の世界だぞ!

現在ではそれは間違いだぞ! こつこつ働いて貯蓄するやつより、キリギリスみたいに遊びや愉しみを周りに提供できる才能に金は入るぞ! 

 

そこんとこきぃつけろ! ピッコロ! いくらおめえが神コロになっても、ネイルと同化してもセルにもフリーザにも勝てねえぞ! あいつら無駄死に(?)だぞ!

 

銀行預金はやめろ! ほとんど庶民の特になるようなことはねぇぞ! 

そんで優秀な人は組織に頼らないほうが、現代では大金稼げるぞ! 

その意味で正社員の意味はあまりなくなってるぞ! いつ、なんの会社がつぶれるかわかんねぇからな!

(ブログ主からの注:堀江さんは正社員はあまり意味のない、とこの著書で言い切ってますが、少なくともそれは本当に優秀な一握りの人に対してです。ぼくはいま、転職エージェントの業務に携わっていますが、やはり正社員という待遇は圧倒的だと思います。大手企業は特に……)

あと家も買うなよ! すげえもったいねぇ買い物だぞ! 持ち家なんか、税金かかるし、減価償却するし、引っ越しできなくなるしいいことねぇぞ! 

 

あとお金は欲望のままに使った方がいいぞ! 

小遣い制度はやめろ! あれフツーに考えておかしいぞ! 稼いでるサラリーマンが、今月一万円だよ……とか財布見て下向いてるの、どんだけマゾなんだとオラおもうぞ!

 

あと、金で買える時間は全部かったほうがいいぞ!

掃除洗濯はアウトソーシングして、人に任せて、電車には決してのるな! 人生という時間の無駄だぞ!

 

あと、ちんけな節約もやめた方がいいぞ!

昼から迷わずうな重くって、スマホは最高スペック使った方がいいぞ!

あとジムいけ! おい悟飯! お前そんなんだから魔人ブウ編でいいとこないんだぞ!

邪魔なものは捨てちまえ! オラも途中で如意棒は捨てたぞ!

 

あと現在は財産イコール信用(ブランド)だからな!

手柄を人にやって、人助けに金を惜しまず使え! 

そしてほしいものはすぐ買え! それで甘え上手であれよ!

 

そんなとこだ!

 

今回はオラのおすすめの「金」に対する考え方と、「金」の使い方を紹介したぞ!

 

次回もぜってぇ見てくれよな!

 

 

 

 

書籍レビュー 『時間革命』 堀江貴文

Time is Money.

この考えは間違っている。なぜなら、Time is much more valuable than money. やれやれ。時間はお金よりもはるかに大切なものだからさ。

 

 


時間革命 1秒もムダに生きるな

どうも。プロテインはここ数年飲んでいません。

ツナ缶プロテインです。

 

堀江さんの書籍をはじめて読んだのでレビューというか概要をつらつら書きたいと思います。

 

【概要】

おっす! オラ堀江!

ひゃーー、みんな時間に対してすげえ無自覚だとオラ思うぞ!

忙しい、忙しいって言っている人ほど、「他人のための時間」に時間を取られて「自分のための時間」を持てないことがあるんじゃねえか!

それはダメだぞ! 馬鹿だぞ!

おめえはもっと「自分のための時間」を増やすことを意識した方がいいぞ!

「自分のための時間」を増やして、「他人のための時間」を減らしてこそ人生の充実度はアップするからな!

だけど一日が24時間ってのはオラもミスターポポも、神様もピッコロも変わんねぇから、何をしたらいいか、考えたほうがいいぞ!

オラがこのことを意識したのは、けぇむしょにぶち込まれてからだ!

人間に対する罰の本質は時間を奪うことだと、オラ刑務所ではっきりと意識したぞ!

だからオラは、無自覚に自分の時間を奪おうとするやつにはおこっぞ! 激怒すっぞ!

オラは電話をかけねぇし、出ねえぞ! 

電話は相手の時間を自然に奪う行為だからだぞ!

オラは以前、新幹線のなかでも激怒したぞ! 

前の座席のやつが、座席を倒していいか聞いてきたからだぞ! 

そんなでオラの時間を奪うな! 勝手に倒せばいい! オラ怒ったぞ!

あとは隙間時間も効率的に使うことは考えたほうがいいぞ!

現在のホワイトカラーの仕事は、その多くの時間をコーディネート(調整)に割かれている。だから、どうしても隙間時間は生まれてしまうけど、その間にあまり重要でないタスクはかたずけるようにした方がいいとオラは思うぞ!

おう、ベジータ! 大事なことには集中して取り組んで、そうでもないことはマルチタスクでサクッとおわしちめぇ!

あと、常識に縛られて、時間を無駄にするのももったいないからやめた方がいいぞ!

ナメック星でピッコロと同化したネイルと同じくらい無駄だぞ! 結局フリーザはオラが倒したしな!

あと、病気にならないことは、つまり健康であることは病気で時間を取られないことだとオラ思うぞ!

だから、健康の情報については積極的に収集すべきだ!

あとは将来を心配することも時間の無駄だぞ! オラは常に「今」に集中してっぞ!

おう、ベジータ! おめえもぐずぐずと将来のことしんぺぇすんな! お前は将来、娘にうだつの上がらないヘタレになっぞ! サイヤ人の誇りとかすべて消し飛んだクッキングパパベジータになっぞ!

オラも昔、二十歳ぐれぇまでの頃は、「いつか死ぬのか……」って考えては不安になってたぞ! でも、頭ン中やることいっぺぇにして行動しはじめたら不思議とそうした不安はぶっ飛んだぞ! これは仏教の考ぇ方に似てるらしいぞ!

 

今回は「時間」についてひたすら書いたぞ! 次回もぜったい見てくれよな!

 

 

『謝肉祭(Carnacal)』 村上春樹

『謝肉祭(Carnacal)』 村上春樹

 

 


文學界 12月号

 

村上春樹のファンです。

彼の小説はだいたい読んでいまして、何作か彼の文体を真似して小説を書いたりもしました。

そんな村上春樹の新作の短編小説が文學会12月号に乗っていたので読んでみました。

 

 

 

 

 1.感想

久しぶりに読みましたが、村上節が全面に押し出されており、わたしは好きでした。やはり春樹は、「僕」という言葉を使った一人称小説でこそ力を発揮するなぁ、と思います。

 

今回の『謝肉祭(Carnacal)』のテーマの一つは「ブス」あるいは「醜さ」です。

冒頭はこんな文章で始まります。

 

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 彼女は、これまで僕が知り合った中でも最も醜い女性だった。(『文學界』 12月号 p10)

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 セクハラ・パワハラ全盛期のこの時代において、こういうことをサラッと言ってのける春樹はさすがです。あこがれはしませんがしびれます。その後も、

 

 

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 自分が醜いと自覚している醜い女性の数はそれほど多くはないし、それを事実として率直に受け入れ、ましてやそこに幾分の愉しみを見いだせるような女性は皆無とは言わないまでも圧倒的にすくないだろうから。(『文學界』 12月号 p11)

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 と香港のデモ隊のごとく社会に火炎弾を投げ込む春樹はさすがです。

 それでも、今作は秋風のようにどこか哀愁が漂う作品になっています。読み終えたときに、心に少し冷たい風が吹き抜けるような、そんな良作です。わたしは好きでした。少し、物語性に乏しいかもしれませんが。

 2.あらすじ(ネタバレ含みます)

 

「F*」はこれまで僕が出会った中で一番醜い女性だった。だけれども、僕はどうしても彼女にひかれて、しばしば彼女と会っては、音楽の話をした。僕は結婚もしていたけれど、彼女の醜さのために家庭に波が立つことはなかった。

あるとき、「好きなピアノ音楽は何か?」というテーマで僕とF*は話し合う。

そうよ、たった一曲だけとF*はいった。言うなれば、無人島にもっていくピアノ音楽。

僕が挙げたのは、シューマンの『謝肉祭』だった。

その答えについて、F*はなぜだろう興奮していたけれども、結局は賛同して、シューマンの『謝肉祭』について僕らは語り合った。

F*と連絡が取れなくなるまでの期間、僕とF*は熱心にシューマンの「謝肉祭」を聞いていた。頻繁に会っていたけれども、彼女が自分のことを話すことはなかった。僕が何か彼女を聞いても、彼女はあいまいに笑うか、うまく煙に巻いた。彼女は結婚しているみたいだったが、僕は彼女の夫と会うことはなかった。いつも彼女が、夫の不在時に僕を呼ぶのか、夫と離れて暮らしているのかはわからなかったが、彼女の左手には金の指輪があった。それでも、彼女の家にはおよそ夫という男の痕跡が全く見受けられらなかった。

F*と連絡が取れなくってしばらくしたある日、僕の妻がテレビに映ったF*のことを見つけた。彼女は特殊詐欺事件に関与していて、事件の主犯は彼女の夫だった。

僕はそこで激しいショックを受けた。彼女の夫が、まるで職業モデルのような端正な顔だちだったからだ。

もちろん、僕だけではなく、テレビのニュースを見ていた多くの人々がその大型詐欺事件の主犯である端正な顔立ちの夫と、実に醜い顔をした妻とのイメージに好奇心を引き付けられ、あるいはショックを受けたかもしれないけれども、僕のショックははるかに個別的なものであり、局所的なものだった。

それきりF*は僕の生活から消えてしまった。

それよりもずっと前の話。

僕はかなり容姿のパッとしない女の子とデートしたことがある。友達に誘われてダブルデートをしたのだが、その際の友人のガールズフレンドの友達としてやってきたのがその容姿のパッしない女の子だった。僕たちの趣味は全く合わなかったけれど、彼女は僕のことをよく知りたがった。

彼女は別れるときに、僕に電話番号が書かれたメモを渡してくれた。

あとでダブルデートに僕を誘った友人から電話があった。この前はあんなブスな子を連れてきて悪かったな、と。ほかに連れてくる子に予定が入って、寮に残っているのが彼女しかいなかったのだという。彼女もわたしでごめん、と謝っていたと。

それは違う、と僕は思って、彼女に電話をかけようとした。けれども、僕は彼女の電話番号が書かれたメモをなくしてしまっていた。こうして、僕と彼女は永遠に会えなくなってしまっていた。

その一対のエピソードは僕の人生の中の出来事だ。

おそらくそれらがなくても、僕の人生はおおむね今通りに進んだだろうし、僕のいる位置も変わってはいないだろう。

それでも、こうした記憶はふいに僕を揺さぶる。身勝手に進み、木の葉を巻き上げ、草木を一様にひれ伏し、そして家々の扉をたたいて回る秋風のように。

 

(完)

 

 

 

 

『青いポポの果実』 三国美千子  あらすじネタバレ 感想


新潮 2019年 12 月号 [雑誌]

 

 

『青いポポの果実』

 

 

昨年『いかれころ』で新潮新人賞。そして同時に三島由紀夫賞も受賞した三国美千子さんの新作が『新潮 12月号』にあったので読みました。

 

 

 

1. 感想

これ、芥川賞候補行くんじゃないですかね?

 

先に言ってしまうと、古市さんの『奈落』よりも全然面白かった……

古市さんの『奈落』も三国さんの『青いポポの果実』も両方家族のことが描かれている物語で、どちらも家族が少しおかしいのですが、三国さんの描き方のほうがより立体的に家族が描かれていて、古市さんの『奈落』に出てくる家族はどうしても薄っぺらく感じてしまう。凄みがない。

 

もし、古市さんが芥川賞候補になって、三国さんがならなかったら僕は文藝春秋を爆破しにいこうと思う。

 

それくらい面白い「青いポポの果実」おすすめです。

 

ただ少し描写が丁寧ではないので追いづらい。

丁寧ではないという言い方は語弊がありますね。一つのシーンにつき、描写が短いです。

つまり、「どこで」「だれが」「どうなって」「どんな顔をして」「どんな気温で」「どんな天気で」「どんな季節で」がそれほど文字情報として与えられていない。

そのため逆に150枚でこれだけ重農な内容になることが可能だったのでしょうが、やはり少し読みづらい感は否めない気が……

でも読書に慣れている人なら全然平気だが、普段から読んでいる人ではないとドロップアウトしそうな感じ。

村上とは真逆ですね。あの人は一つのことに対してしつこく何度も描写を繰り返すので。

 

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  F*は目を細め、長いあいだ僕の顔をまっすぐ見ていた。それから両手をテーブルの上において組み合わせ、関節をぽきぽきと鳴らした。正確に十回。まわりのテーブルの人々がみんあこちらを振り返るくらいに大きな音がした。三日前のバゲットを膝で折るときのような乾ききった音だった。男女の別を問わず、それほど大きな音で関節を鳴らすことのできる人はそんなにいない。

 『謝肉祭(Carnaval)』 村上春樹 文學界 12月号

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 2.あらすじ(ネタバレあり!)

 

 主人公の「僕」こと山岸七聖は妹の千由(通称ユキ)と一緒に「スパイごっこ」なる、隣人の家を盗み見る遊びに夢中だ。ある日「ポポの木」と僕らがなづけた木がある裏庭に面した家には、半年ぶりに引っ越しして人がやってきた。

 

僕はママのことを雌犬とよんで、軽蔑しているけれども、小学五年生の「僕」の体はどうしようもなく雌犬の体に近づいていく。

 

 パパは「僕」のことを写真にとって児童ポルノとして売ってお金を得ている。そのモデルを断ることはできたのだけれども、ママへの奇妙な復讐心が、物扱いされる嫌悪感に買って、僕は数年後に梅田のアダルトショップで自分の写真を見つけることになる。

ママは知っているけれども、休みの日にパパが家にいるよりはましだから、「僕」が写真を撮られるのを止めない。

 

 ある日「僕」は妹のユキと、そして母と一緒に裏庭に越してきた倉橋さんの家に挨拶にいって、僕とユキはそこで倉橋麻子という高校生とその弟と少し遊んだ。後で気づくことになるのだが、あのとき「僕」は麻子さんが好きだった。

 

 ある日「僕」の家には、新しく小学五年生の担任になった水谷瑞枝がやってきた。母に「一度専門機関で診察を受けるべき」だとアドバイスしたらしい。

 なぜか「僕」は妹のユキと自分たちの置かれた状況について話すことはなかった。妹のユキはたまに布団で「僕」にキスをする。

 

 またある時期、担任の水谷瑞枝の差し金で、僕は医者に連れていかれた。衣服を脱がされ、股を広げられて、僕は女の子である診察をされる。僕は悪魔に憑かれたエクソシストみたいに、裸のまま医院の診察室をめちゃくちゃに破壊した。

 

 ユキはある時期まで、家族の中で最も成功するだろうと思われていた。大きくなったらひとかどの人物になるだろうと。ある日、いつものように「スパイごっこ」をしていると、のぞいていた家のうちの一つで、痴話げんかが行われているのを見る。ヨーコという女が打たれて警察に電話をかけようとする「僕」にユキは「やめときな」という。

「ヨーコ死ぬで」

「観察対象にはかかわれん主義なんよ」

「僕」はここでユキが、まるでバッタやダンゴムシを観察するように隣人を除いていたことを知った。

 

 

 ポポの木がある倉橋家には赤ちゃんがいた。誰の赤ちゃんなのかはわからない。ただひょんな会話から僕は麻子がもう赤ちゃんを産めないことを聞く。十七歳の彼女のへその下には、縫ったような跡があった。

 倉橋家に遊びに行った際、「僕」はポポの木の果実を麻子に差し出される。その果実はまだ熟れてはいなく青く、「僕」は食べることを拒否した。

「いらん」

「ポポなんか果物やない。毒があって、子供がうめなくなるらしいよ」

 それを言っても麻子に無理やりに口に含まされる。

「僕は、大人になっても絶対に子供なんて生まないから平気屋で」というと麻子も

「私だって平気。一回お腹を切ったせいで、もう産まれへんもん」

 

「首でもつって死んでくれない? いなくなったほうがよっぽど親孝行よ」

 雌犬(母)にそういわれた「僕」は荷物の一切合切を庭に投げられた。

 土曜日が来て、ユキがいないのに気が付いた「僕」はユキの観察日記を見る。「団欒」という文字がところどころに書いてあった。それは観察対象に家にあって、僕らの家にないものだった。そして一週間に一度、¥の文字がかかれているのも見つける。

「僕」は全身の力が抜けてどうにかなってしまいそうだった。

アパートの一番奥の部屋、通称チャールズ夫妻と「僕」が名付けた夫妻の部屋で、ユキは裸になってアニメを見ていた。雌犬がアニメは一日30分とした愚かな教育の結果だ。ずいぶんと派手にチャールズはやらかした。ユキの真っ黒な髪の毛にも濁った白い液体は付着していた。

 

「僕」は溺れて死のうとしたけれども、結局は助けられた。助けられて麻子の家に連れていかれて、麻子と二人っきりになって「僕」は、裸のまま麻子の体に絡みつく。

「目が覚める。あなたは子供のまんまやけど、次のものになってる」と麻子が言った。

「僕」は自分の中の雌犬にサヨナラを言った。

 

「僕」は小学六年生になると「わたし」になった。胸が膨らんできて「わたし」は疑われる余地もなかった。

 

「わたし」は肉と骨だけに痩せこけてしまうまで、父に犯されていた。それは台風の日に屋根を身にきた祖父がそこにある大量のウィックや制服を見つけるまで続いていた。

 

「わたし」逃げるように家をでて結婚する。そうして子供時代に何かが壊されしまった「わたし」はしかしいずれ夫である男を本当に愛し、また受け入れることができるのだろうと思う。彼女は辛抱強く、優しい人だから。 

 

 その時にこそ「わたし」は、あの十歳の自殺未遂を図ったあの日に、麻子という十七歳の少女がわたしにもたらしさ優しさの正体がわかるのだろう。

 わたしは知る由もなかった麻子のやさしさを思い、彼女のそばにいて、守ってくる人が一人でも多く、と祈るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

【感想】『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

吾輩は傷心である。近所の蔦屋書店に行ってみると、黄色い本が文芸書の売り上げ一位鎮座していた。

 

 

この本である。

 

 


ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

副題はThe Real British Secondary School Days.(副題の邦訳は英国中学校のリアルな日常)

 

※タイトルの由来:英国人の夫と結婚した、日本人のわたし。息子の部屋に掃除に行くと、机の上に国語(English)のノートが開かれたままなのを見つける。そのノートには赤ペンで添削されていた。息子はBlueの意味を『怒り』と書いてしまったのだ。わたしは夕食時に息子とそのことを話したことを思い出した。そしてわたしは、Blueが表す感情は『悲しみ』または『気持ちがふさぎ込んでいる』と息子に教えたのだった。これがその宿題か、とみてみると、右上の隅の、小さい落書きが目に入った。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

わたしはこの時、息子がブルーの意味を知っていたのかを、いまだに聞き出せずにいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〈簡単なあらすじ〉

ブレイディみかこ氏と英国人の夫の子供はカトリックの名門小学校に通っていた。しかし、子供の生活環境は中学を機に一変することになる。「元底辺中学校」と作中でよばれる英国社会の縮図のような中学校に進学したからだ。そこでブレイディみかこ氏の息子は、さまざまな差別、暴力、現実に直面する。そんな中学校での息子さんが受けた差別や、その周囲での暴力の記録と、それを親子が体当たりで立ち向かう実話。

 

 

 〈感想〉

吾輩は読み始めたのだが、心が痛くてページをめくるのがつらかった。この本はある意味、差別体験の凄惨な現場報告である。この本に書かれていることは紛れもなく世界のどこかで起きている事実であり、そのことが胸を(非常に安易な言い方で申し訳ないが)締め付ける。苦しくなる。

 

自分のことになって申し訳ないが、吾輩はオーストラリアに一年と、アメリカに半年、そしてニュージーランドに半年いたことがある。

 

大体それくらい暮らすと、どこの国でも差別があることを理解することができる。そして、吾輩が属していた大人の世界でもそうなのだから、子供の世界ではもっと厳しいのだろう。

 

そんな凄惨な現実が本書には収められている。

 

正直な話、なぜこの作品が文芸書の売り上げで一位を取っているのかが理解できない。

 

いや、内容が悪いわけではない。この本は日本で発売することに大きな意味がある。

なぜならば、この本を英国や、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドで発売したところで、大した反響は得られないのだろう。

 

だってそこにはなんら目新しさもない、彼らが目にしている現実なのだから。

 

田舎の中学校の普通のいじめをただ書き綴った本は売れないだろう。

 

でも、だからと言って、この本に書かれている内容はつらすぎる。

 

この本に書かれている差別、暴力、偏見の問題の根本はおそらく解決されない。

 

時代がどんなに進んでも、テクノロジーがどんなに進歩しても、この本の中の暴力はなくならない。

 

なぜなら、人間は自分より弱いものをいたぶることに快感を得る生き物だから。

 

そして人間は狡猾だから、自分より強いものに立ち向かいなんてせずに、その集団の弱いものを見つけていたぶるから。

 

この文字を打っている今も、涙が出ているし、本当はネタバレを書きたかったけど、全部読むことができなかった。

 

つらすぎた。どういう思いでみんなこの本を読み進められるんだろう。

 

オーストラリアの街並み歩いて立って、「ニーハオ」と声をかけらるし、酔った兄ちゃんが犬を見て「おぉ、中国人の餌じゃあないか!」と叫んでいるのもみたし、「アジアンの顔ってみんなかわいいよね」とか片思いしていた子には言われるし、いつもどこかの交差点で土下座をして物乞いをしている白人のホームレスに、アジア人が笑いながらマックのポテトを投げつけるのも見てきた。

 

「心を揺さぶる」という意味では間違いなく名著。

 

でも、吾輩にとっては、人間の醜さを掘り起こされて、まざまざと見せつけられる、という方が正しい。

 

いい本には間違いない。

 

でも、なんで、どうしてみんなこれを読めるんだろう。つらくないのかな。

 

感情をぶん殴られる本。

 

すばる12月号 綿矢りさ×佐藤愛子の対談が面白い件

 吾輩は蔦屋書店でくすりと笑ったのである。

 いや面白い。面白いよ。久しぶりに文章を読んで笑わしてもらった。

 今月のすばる12月号の綿矢りさ氏と佐藤愛子氏の対談である。

 


すばる 2019年 12 月号 [雑誌]

 

 

 目を引いたのは、「文学修行の今昔」というタイトルだ。

 吾輩は小説家になりたい。だから小説家になるヒントはいくらでも欲しいし、携帯に小説家と打ち込むと「小説家 インタビュー」「小説家 なりたい」「小説家 インタビュー 新人賞」とかでてくるよ。

 それでまぁ、タイトルにひかれてすばる12月号の対談を読んだのだが、とにかく佐藤愛子氏が面白かった。

 まぁ「文学修行の今昔」と銘打っていながら、デビューするためにどのような文学修行をするべきなのかはあまり書かれていない。今にも通じるアドバイスは、とにかく佐藤氏は海外、国内とはず古典の名作を読み漁ったというところだろうか。やはり古典に学ぶことは多いみたいだ。

 あとは、佐藤氏の生まれ育った時代の文学の事情を読んでいると、今のYoutuberみたいなのが、そのまま昔の作家なのだなぁと思った。

 要するに、世間からしっかりとした仕事と認識されて日が浅いが、成功者は金をもっていて、それになりたい若者が後を絶たないような業界。それが日本の文学界だったみたいだ。最近はもうすっかりではあるが。

 対談の話に戻るが、この佐藤氏という人物、そうとう曲者である。

「自分は被害者意識は理解できない。たぶん、いつも加害者だからだ」という趣旨のことを嫌味もなくからっと言ってのける。

 また原稿用紙を天ぷらを揚げた油とり紙にしているというのは笑った。

 佐藤氏と村上春樹の共通点も見つけられた。両者とも、手紙で人を喜ばせていたという点だ。佐藤氏の場合は実の父を。村上春樹の場合はのちに奥さんとなる女性を。

 やはりプロの作家になる人は、もとから文章を書くセンスみたいなものがあるのだろうか…… 

 まぁそれでも佐藤氏はずいぶんと目が出ない。文章かいていても一銭にもなっていない期間が長かったというから、吾輩も気長にあと二年くらいは続ける予定だ。

 あと佐藤氏は、太宰治の初期の文学作品についても言及していた。なんでも佐藤氏も井伏鱒二にはまり、井伏鱒二の弟子であった太宰治の初期作品をかたっぱしから読んでいたという。

 そのときに、太宰治井伏鱒二の文体を模写した小説が出てきて、これがひどい出来だったそうだ。

 太宰も初期作品はひどかったと聞くと、なんだか心和まされる。まだ吾輩は書いていてもいいのではないかと。

 脱線しかしていないが、『すばる12月号』、は綿矢氏と佐藤氏の対談が面白いよ。

 

 

 

慶應経済 TOEIC980 の僕が就活に失敗した理由を語ろうと思う① (小説)

慶應経済 TOEIC980 の僕が就活に失敗した理由を語ろうと思う① (小説)

※名前以外、ノンフィクションです。

 

 

 

              多くの就活生のために

 

 

 僕は二十四歳で、そのとき東急東横線の、電車マニアたちからはカエルと呼ばれる緑の車両の座席にすわっていた。そのカエルは分厚い雨雲のもとを進み、やがて渋谷に到着しようとしているところだった。

 やれやれ、また渋谷か、と僕は思った。このところ、渋谷、大手町、日比谷。この三つの駅で降りてばかりいる気がする。

 目の前では僕と同じように、黒い無個性なダークスーツを着た女子大生が腰を上げた。

 彼女は美人だった。でも、まるで今にも泣きだしてしまいそうな、ひどい顔をしていた。あるいは、彼女はもう泣いていたのかもしれない。

 いつだったか、僕の先輩の長沢さんが僕に言ったことを思い出す。

「ワタナベ、就活中は、就活のAVを見るといいぞ。周りに就活生がいる中帰ってきて、就活のAV見ると、めっちゃ抜けるから」

 そのときはやれやれ、と思った。そんなアドバイスを僕は真に受けることはできなかった。あるいは、だから僕は就活に失敗したのかもしれない。

 結局、その日に出会ったスーツを着た女子大生の残り香でマスをかいていた長沢さんは、デロイトトーマツコンサルティングに内定した。就活勝者だ。立派なものだ。彼はゼミの後輩にも慕われていた。

 僕はこれから、自分が就活を失敗した理由について語ろうと思う。

 しかし何はともあれ、これから就活に今こそ望むという鼻息荒い、有望な就活生や大学1,2年生諸君が、この文章を読んで得られることは何もないのだということを、初めに述べておきたい。

 結局就職活動で負けた僕には、今のところ差し出されるものが、何の価値もない自分の体験談しかないのだ。

 そして、今まさに就活で苦しんでいて、あるいはもう苦しみぬいて、あるいはただ自分よりも下の人間を見たくて、安心したくてたまらないという人間にむけて僕はこの文章を書いている。

 就活において僕が差し出せるものはそれしかないのだ。

 そう考えると、僕はたまらなく悔しい。何故なら僕は就活に対し、それなりの熱量をもって取り組んできたからだ。

 

 

  • 自信がなかった。

 

インターンの募集が終わるころ、僕はレンタル彼女と付き合っていた。彼女は僕より

一学年上で、MARCHの中の紫色の大学に通っていた。たぶん、付き合っていたと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない。

 バイタリティが人一倍あり、大学に通う道すがらよくホステスや、AV女優や、キャバクラのスカウトがくるようなタイプの美人だった彼女は、アクセンチュアという就活生のあこがれのような企業に、六月を前に内定を得ていた。

 僕は今でも彼女の家で見たアクセンチュアの内定通知書を思い出すことができる。それは英語の格好いい紙で、額に入れて飾っておきたいくらいだった。

 これは完全な余談なのだが、僕の友達のお母さんが、池袋で心療内科の受付をしていて、患者の約三分の一はアクセンチュア勤務なんていうこと、そんなことはこのころ知る由もなかった。

 とにかくそのアクセンチュアに内定の決まっている彼女が、夏インターンで全敗をした僕を見かねて、彼女の同期の一人に合わせてくれた。

 彼女が連れてきてくれた男は、キズキという名前で、身長は172センチほどだったけど、もっと大きく感じた。短く刈った頭で、はきはきと、時にこちらが身構えてしまうほどの声量で話した。

「キズキはね、面接本当に強いから」

 キズキはキーエンスに内定していた。キーエンスといえば、今就活生に人気の企業の一つだ。二年目で年収一千万はいく、財務諸表が金ぴかの企業だ。

 キズキと話していて、僕はある一つのことに気が付いた。

≪こいつ……大したことない≫

 実際に学歴は僕の方が上だったし、語学スキル、そしてガクチカのスケールも僕の方が大きいと思った。

 でも彼は、自分がいかにすごいか、自分がいかに優秀かを話すのがうまかった。

 彼が中身のすかすかで見かけのよいピーマンだとしたら、僕は中身のつまり過ぎてブサイクな形になったトマトのようなものだった。

 すごくない体験を目を輝かせて、僕に語っていた。

 僕は、マウントを取られるがままだった。

 

 君に覚えといてほしいことがある。5パーセントの就活生、いや3パーセントの就活生は本当にすごい。

 彼らは起業し、部活した上で海外インターンをし、インフルエンサーを使って事業を起こしたりしている。

 ひとまずは彼らを無視しよう。

 そして残りの97パーセントの就活生は君と変わらない。どんぐりの背比べだ。

 でもどうして、就活でははっきりと明暗が分かれるのか。

 ヒントがある。朝井リョウという作家がいいことを言っている。

「就活は科目だ」

 これは本当にそうなのだ。就活は科目で、しかも体育みたいに、個人の天性の素質が、「5」をとれるかどうかに大きくかかわってくる。

 だから、自信を持ってほしい。自分なんて、と卑屈にならず、自分自身をもう、ブレインコントロールするつもりで、僕は君に就活に臨んでほしい。

 なぜなら、自分に自信を持つということは就活の結果の一つの境目だと思うからだ。これは、僕の所属するゼミを見てもはっきりと思う。外資コンサル、日経王手に内定した同期……対して、ベンチャー企業、地銀に内定した同期……

 はっきり言って、能力なんて変わらなかった。ただ、前者の方が、自分をより肯定しただけだ。ある程度の楽観をもって。

 だから、まずは自分を肯定することから始めればよかったのだろうと、今更ながらに僕は思う。

 内定先が変えられるわけでもないのに。